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花尊し

花尊し

葬儀



葬儀についての Q & A


Q 密葬と本葬はどうちがう
A 葬儀の形式には密葬と本葬とがあります。一般に葬儀は多くの縁者に参列してもらうのが本意ですが兄弟・親戚が遠方にあって葬儀の日取りを繰り合わせても間に合わないことがあります。特に夏場は遺体の腐敗も早まり長時間置いておくと異臭が立つこともあります。このような場合本葬を後に行ない、とりあえず参列できる身内だけで遺体を火葬し葬儀を行なうことがあります。これを密葬と呼んでいます。また、故人の社会的地位や知名度が高い場合などには、通夜の翌日に遺族だけで葬儀を営み、日を改めて社葬等団体葬として葬儀を行なうことがあります。この場合、前者を密葬といい後者を本葬と呼んでいます。更に、死者が遠方で亡なった時などは、すぐに遺体を親族のもとに搬送できません。この場合、遺族だけで現場近くで簡単に密葬を行なうこともあります。密葬は一般に親密な人のみで行なわれ、本葬とおのずと規模は異なりますが、葬儀における儀式や読経等にはほとんど差異はありません。

Q 引導をわたすとは
A 引導をわたすという言葉は一般には最終的な言い渡しをし覚悟を決めさせるという意味で使われています。仏教においては人びとを教え導いて仏の道に引き入れることを意味しています。法華経には もろもろの衆生を引導しこれを集めて法をきかしむ などとありますが、ここから転じて葬儀において死者が迷わぬように僧侶が法語を唱えることを引導をわたすというようになりました。葬儀において引導をわたすときは最初に、亡くなった人が道に迷わぬようにとのことで戒法を授け心のよりどころを与えます。次にその人に適した法語を示し仏の世界へと教え導きます。この引導の仕方は宗派によりそれぞれ異なりますが、禅宗では最後に一転語を唱えたり、「喝!」・「露!」などのことばを授け成仏へと導きます。

Q 通夜
A 以前は夜を徹して通夜が行われていましたが最近では夜半まで行う半通夜が一般的です。通夜式では祭壇に向かい右側に喪主、遺族、親戚と故人の血縁が濃い順に並び、左側に世話役代表、上司、先輩、同僚、友人、知人と、故人との関りが深い順に前列から座りますが厳密に分ける必要はないでしょう。読経のあと喪主から順に焼香し、灯明と線香は夜通し絶やさないように、遺族が交代で遺体を見守ります。通夜は故人とのかかわりが深かった人たちが最後の一夜をともに過ごし冥福を祈るものですから、親しい人たちは通夜、葬儀、告別式を通して参加します。故人とのかかわりが深くなかった人は葬儀、告別式に参列するのがよいでしょう。都合でどちらか一方にしか参列できない場合は葬儀、告別式に弔問するのがよいでしょう。

Q 通夜のときは線香を絶やさない
A 通夜とは夜伽(よとぎ)・伴夜ともいわれ葬儀の前の晩から夜を徹してお経を読んだり線香を絶やさないようにします。これは喪主や遺族が死者に変わりがないようにいつも見守ってあげたいという気持ちの表われともいえます。しかし、本来は通夜だけではなく四十九日忌までの間、線香や灯明を絶やさないようにすべきであるともいわれます。人は亡くなってから次の生を受けるまでの間を中有あるいは中陰といって、四十九日間霊魂身のままでいるといわれます。この霊魂身の期間は、かおりを食べ物としているので、中有の間はお線香や花を絶やさないようにするといわれるようになりました。線香さえ供えてあればよいというのではなく、故人を偲び、心を込めて供養しなくてはその意義を失ってしまいます。

Q 通夜のいわれ
A 釈尊が入滅された時たくさんの弟子たちが集まり生前に説かれた教えについてお互いに思い出しながら話し合いましたが、同じ教えを聞いていてもそれぞれの弟子たちの受けとり方や理解の仕方によって思い違いをしたり聞き漏らしがあることに気づきました。そこで、弟子たちは釈尊が生前説かれた教えについて一夜語り明かしました。これが通夜のはじまりといわれています。通夜には親戚や故人と親しい人たちがかけつけ夜を徹してしみじみと生前の想い出やその人柄について語り合いお互い忘れていたことを思い出したり懐しく思ったりするものです。本来通夜は釈尊の弟子たちがその教えについて語り合ったのですから、個人を偲び冥福を祈ると共に、この機会に人生の生き方についてお互いに学び合う場としたいものです。

Q 通夜ぶるまい
A 喪主は通夜ぶるまいに移ったときに挨拶します。通夜の席では祭壇の脇に控えて弔問客の挨拶を受けなければなりませんから、喪主としての挨拶は通夜ぶるまいに移ったときにします。通夜ぶるまいの切り上げは通常弔問客が帰ったところで終わりになりますがやたらに長引かないように世話役代表がきっかけを作って切り上げるのがよいでしょう。喪主や遺族は引き上げる弔問客を見送りません。あいさつを受けたらその場で応えるか、目礼をする程度にしましょう。

Q 葬儀・告別式
A 葬儀は、遺族や近親者が故人を弔う儀式で僧侶の読経で引導を渡し故人が無事に成仏できるようにと祈るものです。告別式は、故人の友人や知人が故人とお別れする儀式です。本来は葬儀・告別式は分けて行われていました。葬儀が終わると僧侶は一旦退場し告別式を行うために改めて入場し読経します。最近では葬儀・告別式を一くくりにして一般弔問客が見守る中で葬儀が行われその後すぐに告別式に移るケースが多くなってきています。また、儀式と告別式をまとめて行う例も見られます。この場合は、遺族の焼香と平行して一般弔問客の焼香も行われます。読経は、葬儀と告別式それぞれに行うのではなく、僧侶はこの間続けて読経を行います。

Q 香典持参
A 自然な形として、通夜に弔問したらそのときに差し出し、翌日の告別式では住所と名前を受付けで記帳し、二度にわたって香典を出す必要はありません。

Q 出棺
A 棺を運ぶのは力のある男性数人で、運び出すときは遺体の足の方からで、霊柩車にも同じく足の方から納めます。位牌は喪主、遺影は喪主の次に故人とつながりの深い遺族が両手でしっかりと持ちます。

Q 骨あげは
A 火葬が終わると骨あげとなり箸を用いて遺骨を拾い骨壷に収めます。二人一組で遺骨をはさんで壷に入れます。これを箸渡しといいますが、これは語呂合わせで、冥界にあるという三途の川の橋渡しに通じるというわけです。遺骨を丁重に拾い上げながら、故人が三途の川を無事に渡って彼岸に旅立ってくれるようにと祈りをこらすのです。こういう故人への想いが大切です。遺骨は歯から拾って、最後にもっとも故人と血縁の濃い人がのど仏を拾い上げます。骨壷は白木の箱に入れ白布で包んで喪主が持ち帰ります。

Q 精進落し
A 葬儀に関する接待で忘れてはならないのは「通夜振る舞い」と「精進落し」です。「通夜振る舞い」は弔問客に対する感謝の意を表わすことが目的ですが「精進落し」は「精進上げ」ともいわれ、親族の死後、通夜から骨上げまで、または、中陰が明ける四十九日間、亡くなられた人のためにそれ以上殺生を犯さないようにしようという心くばりから、魚や肉を食べずに精進した期間(精進潔斎)に区切りをつけ、平生の暮らしに戻ることを意味したものです。従って精進落しとは忌に服した生活から、平生の生活に戻る区切りという大事な意味を持っていましたが、最近では葬儀の間お世話になった人達に対する感謝の意も含めてもてなすため、葬儀の終った日に行われることが多くなりました。特に遠方から集まった人は長期滞在できないため、この日に初七日の法要を済ませてしまうことも多くなっています。

Q 葬儀の後の精進おとしって
A 精進明けに普段の生活に戻る際に肉食・飲酒などをすることで、精進明けは精進の期間が終わって普段の生活に戻ることです。精進とはどのような期間かというと

1 肉食をやめ菜食すること。
2 戒律を守ったり禁忌を避けたりして心身を清らかに保ち信仰に励むこと。
3 ひたすら仏道修行に努め励むこと。

神道などの葬儀の後の食事を「お清め」と呼んでいることと同じ「ケガレを落とす」という意味が「精進おとし」という言葉にもあるのでしょう。仏教には「ケガレ」の思想はありませんので葬儀の後の食事を「お清め」とか「精進おとし」と呼ぶことはありません。長期に亘っての修行や信仰に励み、仏道に努めるという意味の精進を、精進もしていない人がいかにも精進しておりましたといった顔で「落とす」などと表現することは厚顔無恥というものです。仏教では仏事の際の食事を「お斎(とき)」と呼んでおります。「お斎」にはケガレを落とすとか清めるといった意味は含みません。 「斎場」も本来は僧侶の食事場・仏事の後の食事の会場といった意味でしたが、現在では仏事の会場・通夜葬儀の場所といった意味に変化したようです。

Q 清めの塩をふりかけるのは
A 葬儀に参列したときなどに清めの塩を渡されますが、これは帰宅して家に入るとき、身体を浄め、穢れを祓って下さいという意味で用いられています。昔から塩にはものを浄める力があると考えられてきました。塩をきかせたものは腐りにくいとか、あるいは海で怪我をしても傷が膿まないという経験などから、塩にはものを浄める力があると信じられてきました。古来、人が死ぬことに対して日本人は穢れと受けとめてきましたが、これは神道の考え方であり、仏教の考え方ではありません。仏教では死を穢れと考えませんから、仏教の本来の立場からはその必要はないといえます。しかし、一般には葬式は穢れの式であり、葬儀に参加した人はやはり穢れているということで塩をふりかけたり、塩をつけて手を洗って「お浄め」をしています。

Q 香典の意味
A 葬儀や法事に参列する時、亡くなられた方のご霊前にお供えする金品を香奠または香典といい、香奠の奠は、すすめること、供えることという意味で、仏前または死者のご霊前に香を供えることです。これは六種供養に由来するもので六種供養とは、仏さまを供養する方法で、華・塗香・水・焼香・飲食・灯明の六種をいいます。六種供養の中でも、香は仏さまを供養し身を浄める意味と、香の立ちのぼっていく煙にのせて仏さまを送り迎えする意味とがあります。香典は現在は金銭となり香を買う資金または香の代品という意味は薄れ、葬儀や法事で出費がかかるため、まわりの者はその一部を香典として提供するという性格を持つようになってきています。そのため、仏事が終わって余りが出れば、香典返しをするという風習が生ずるようになったのです。ですから、香典返しは必ず行なわなければいけないということはないのです。

Q 他宗派の住職に親の葬儀をお願いしたが?
そんなことはないと言われるのですが、あの世でもまた親子でいたいと思い、違う宗派では分からないのではと思ったり・・・
A 仏教宗派はお釈迦様の八万四千というみ教えの中から各宗派の宗祖と言われる人々が最もふさわしい教えだと選び出しそのよりどころとして自分の宗派を開かれたのです。ある特定の教えのみが良いということはなく先祖の宗派と異なった宗派で祭ったとしてもお釈迦さまのお説きになられた仏教を通じて菩提を弔われたのですから十分なことをしてあげられたと思います。この後の信仰をご先祖さまからの宗派に求めるか、御両親の葬儀の宗派に求めるかは、要はあなた自身の信仰の確立にあると思います。もしあなたがおかれている環境に関係なく宗派を選べるのなら、父母そして先祖から縁のあった宗派で追善供養していくのも良い方法だと思います。どちらにしても、信仰の対象としての菩提寺を定め、菩提寺のご住職の指導を仰いで信仰の道に入り、明るく、正しく、仲よく生きてゆくことが残された者の勤めと心得てください。

Q 他宗派の葬儀の時のお参りの仕方
A 他宗派での葬儀のおまいりですが色々なおつきあいの中で様々な宗派、宗教の葬儀に参列することがあります。それが神道であろうとキリスト教であろうと自分自身の信仰の形で合掌・礼拝・念仏を(心の中で)しています。個人の信仰は誰にも妨げられるものでもありませんし場所によって形を変えるのはおかしいのではないでしょうか。どうしてもその葬儀の形式に合わせなくてはならなくなったとしても心の中で合掌・念仏して欲しいものです。

Q お経は亡くなった人のために読むのではない
A お経はお釈迦さまの説法のことで、お釈迦さまの滅後、多くの仏弟子達が互いの記憶を確認しながら編集・編纂したのです。当初のお経は古いインドの言葉、サンスクリット語で書かれておりましたが、三蔵法師らによって中国語に訳され日本に入ってきました。現代日本語に翻訳されたお経も多くありますが、原点に帰ってお経とは何かを考えてみますと、それはお釈迦さまのお説法であるということです。そのお釈迦さまのお説法は誰に対してなされたかと申しますと、生きた人間に対して説かれたのでした。亡くなった人に向かってお釈迦さまがお説法をされたことなど一度もありません。お経は亡くなった者に読んであげるものではありません。亡くなった方をご縁として、この私がお釈迦さまのお説法を今聞かせていただいている、あるいは、お釈迦さまが讃歎された阿弥陀さまのお徳を私もお釈迦さまと一緒に讃えさせていただくのが読経ということです。亡くなった人に読んであげるといった考え方は、亡くなった者を「迷いの存在」「たたりを起こす存在」「かわいそうな存在」として受け止めているのです。この考え方は本当の仏教ではありません。本当の仏教は「死者の死を無駄にするな」と教えております。無駄にしないとは、親しい者の死を縁として自らの命を仏教に問うことです。そしてそのご縁を尊いご縁であったと慶ぶことが出来たとき、死者の死が光り輝く仏さまのハタラキと受け止めることが出来るのです。

Q 般若心経とは
A 浄土真宗では般若心経というお経は用いません。浄土真宗は自分の力で悟りを開く宗派でなく、阿弥陀仏の救いを基本とする絶対他力の宗派だから、親鸞聖人は浄土真宗のお経として「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」という阿弥陀如来の救いを説いた経典を選ばれました。「般若心経」は人間が般若の智慧を得て自ら悟る自力の道が説かれている経典なのです。そもそもお経は、お釈迦様のお説法をまとめたものですが、お釈迦様は、修行によって悟りを開ける者には、自らを律し煩悩を断つ自力聖道の道を説き、自分の力ではとうてい悟りを開くことが不可能な者には、絶対他力の阿弥陀仏の救いを説かれたのでした。お経は私たちが釈尊のご説法として聞かせていただくものなのですから内容が分からなければ、そこに説かれている救いも自分のものとはなりません。どんなによい薬も効能書きばかり読んでいても意味のないことです。飲まなければ効果はないのです。般若心経は全文262文字という短いお経で暗記もできますが、凡夫を自覚する浄土真宗では一切用いないのです。

Q 永代経とは
A 「永代経」とは「阿弥陀経」や「般若心経」などのようなお釈迦様の御説法を文字にした「経」ではありません。永代経は永代経法要のことで、宗派や寺院によって考え方は様々ですが、浄土真宗の永代経法要は永代に亘って経(浄土三部経・阿弥陀様の救い)が伝わることを願って執り行われる法要のことです。浄土三部経もよく勘違いされるのですが、そのような名前の経はありません。仏説無量寿経と仏説観無量寿経、そして仏説阿弥陀経を総称して浄土三部経といいます。この浄土三部経は阿弥陀如来の救いを明らかにした経典で、親鸞聖人は、煩悩を持ち、戒律も守れず、どのような修行も満足に出来ない者を目当てにお釈迦様が説かれた教えであると大切にされ、この浄土三部経の教えを基に成立しているのが浄土真宗です。永代経でよく問題になるのは「故人のために永代に亘って経を読むこと」と勘違いしている人が多くいることです。確かに故人をご縁として通常のご法事のように経は読みますが、ご法事と同じく、その経は故人のためではなく生きている私が、あるいは私たちの子や孫・曾孫などの子孫、もっと言えば血縁に関係なく現在と将来の浄土真宗にご縁のあるすべての者が阿弥陀如来の救いに出会うことを願って読まれるものです。そして経を読んだ後、浄土真宗では必ずといって良いほどご法話がありますが、経の教えである阿弥陀如来の救いをご法話として永代に亘って伝えること、そして聞くことを主な目的としているのが浄土真宗の永代経法要なのです。特に故人の年回法要は四年から六年に一度ぐらいしか営まれませんが、お寺での永代経法要は毎年行われます。地方へ参りますと春と秋の二回行われるところもありますが、これも数多く教えを聞いてほしいとの願いから行われているものです。また、永代経法要では永代経懇志を収めますが、この懇志は寺院が永代に亘って護持されますようにとの願いから納められているものです。一般的にはお金を懇志として納めておりますが、古くは仏具を揃えたり、お寺の営繕、教化伝道の教材を購入するために永代経懇志が納められておりました。 このように永代経法要には願いがあります。それは永代に亘って教えを聞いてもらいたいということと、そのためには聴聞の場であるお寺を永代に亘って守って行きましょうという願いです。間違っても故人のために永代経法要があり、故人の追善供養のために永代経懇志を納めるとは考えないで下さい。聴聞のために永代経法要があり、聴聞の場を守り護持するために懇志は納められるのです。



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